株式会社計画情報研究所

COLUMN

サマルカンドブルーに憧れて

サマルカンドブルーのモスクを見たくて、昨年ウズベキスタンに行きました。

オアシス都市・サマルカンド

サマルカンドブルーのモスクを見たくて、昨年ウズベキスタンに行きました。数年前にサマルカンドのことを知り、憧れていた都市です。当時は直行便がなく、ソウル乗り換えでウズベキスタンの首都タシケントへ。その後は電車でサマルカンドに行くという行程でした。
今回は、ウズベキスタン航空がセントレアからサマルカンドへの直行チャーター便を運行していて楽に行くことができました。


ウズベキスタンの位置

サマルカンドは、砂漠の中のオアシス都市です。私は、小さなオアシスの周辺に都市があり、その周辺は砂漠が広がっていると思っていましたが全く違っていました。何と到着時には日本のような雨が降っていたのです。
サマルカンド周辺は肥沃な農地であり、綿花や野菜などが栽培されています。中心部から20~30キロ程度離れると、地理の教科書で習った砂漠のステップ気候の大地が広がっています。


サマルカンド上空


サマルカンド郊外のステップ気候

シルクロードの十字路

サマルカンドはシルクロードの十字路と呼ばれ、東は中国、西はイラン、北はロシアやカザフスタン、南はアフガニスタンやインドがあります。古くからから歴史に登場し、紀元前4世紀、アレクサンダー大王が当時ソグディアナと呼ばれたサマルカンド一体を攻略しました。
また、13世紀前半にはチンギスハーンが、サマルカンドを攻め、属国になることを拒否したサマルカンドは、ことごとく破壊し尽くされました。その後、14世紀後半に建国の父であるチムールが中央アジアにチムール帝国を築き、その首都がサマルカンドとなったのです。
19世紀には、ロシアの統治下におかれ、ソ連崩壊後、1991年にウズベキスタンが共和国として独立しました。サマルカンドは、ウズベキスタンの歴史都市(人口約35万人)として現在に至っています。


建国の父・チムール

中央アジアの歴史をひもとくと、支配者は変わってもそこに住む民族は同じであり、民族意識が高い国です。
日本では、数千年にわたって、同一国家、同一民族、同一言語であり、国が変わるということがありませんでした。
中央アジアでは、当たり前に支配する国家が変わります。しかし民族は同じです。

この旅行で初めて、このようなことに気付かされました。


チムール廟

世界遺産レギスタン広場

サマルカンドは日本で言えば京都のイメージで、その中心にある広場がお目当てのレギスタン広場です。

レギスタンとは「砂の場所」の意味で、この広場を起点する道路がサマルカンドの中心でした。ここは、世界遺産であり、三つのメドレセ(旧神学校)があります。ウズベキスタン人にとっても観光地です。

ウズベキスタンはイスラム教の国であるため、偶像崇拝が禁止され、肖像画としても人物を描くことはまれです。建物内部の装飾は全てイスラム紋様となっています。しかし、広場に向かって右手のシェルドル・メドレセの外壁には獅子や人の顔が描かれ、なぜこれらが許容されたかは謎のようです。


レギスタン広場のティラカリ・メドレセ


シェドル・メドレセの壁画・ライオンが子鹿を追いかけ、その背中に人面がある


ウルグ・ベグ・メドレセの内部

ゆるいイスラム

紀元前からシルクロードの要衝であったため、多様な人種が共存しています。民族はウズベク系(84%)で言語はウズベク語であり、自国に大きな誇りを持っています。

宗教は、ゾロアスター教から仏教になり、その後イスラム教となりました。現在国民のほとんどがイスラム教スンニ派です。


幼稚園児たち

イスラム教というとイランやサウジアラビアを想像し、戒律に厳しいイメージがあります。女性はヘジャブやチャドルで髪を覆い、礼拝や食事に厳しいといったイメージです。しかしウズベキスタンは、ゆるいイスラム教でした。

飲酒はOK(ビールやワイン工場が国内にある)で、毎日5回の礼拝を必ず行う人は少ないそうです。イスラム教も地域性、人間性に合わせて変化することを知りました。


モスクの内部

地下鉄で座席を譲られました!

ウズベキスタンは人間性がいい国です。二重内陸国(二つの国を通らないと海にでられない国)のハンデはありますが、教育に力を入れています。国民の平均年齢は30才程度の若い国で今後成長する国であると思います。

また、目上を立てるという教育が行き届いていて、地下鉄やバスでは、必ず年上の人に席を譲るそうです。私も地下鉄で二十歳ぐらいの若者から席を譲られました。生まれて初めての経験で、ありがたく譲ってもらいました。また日本人の女性はもてるようで、ツアー参加の女性たちはいたるところで写真を撮られていました。

また、たいへんな日本びいきです。これはシベリアに抑留され、ウズベキスタンに派遣された日本人捕虜の生活態度や仕事が良かったことも一因です。現在、日本からの国際援助の比率も高く、経済交流、文化交流も拡大しています。特に日本との観光交流に力を入れており、チャーター便客のために民族舞踊の夕食会やプロジェクションマッピングなどで歓迎しています。

夕食会では、踊りに参加しろと出演者に誘われ、楽しく踊ってきました。ウズベキスタンで異宗教、異文化を体験しましたが、人情は変わらないこと感じた旅行でした。


ウズベキスタンの高校生たち


日本人捕虜の墓地・きれいに管理されている


踊る日本人

(北原良彦)