社内研修 スクール・ナーランダによる学び
はじめに
当社では年に一度、社員全員が一堂に会す研修会を開催している。内容はその年の幹事が発案し計画を練るのだが、本年度は私を含む4名で幹事を担当し、スクール・ナーランダ企業研修を提案した。
スクール・ナーランダとは、仏教をはじめ、科学や芸術、哲学など多様な分野の講師を迎え、現代を生き抜く知恵を学ぶ現代版寺子屋であり、浄土真宗本願寺派が進めている事業である。本来は一企業の研修に用いるものではないが、知人の林口砂里氏(エピファニーワークス代表)が企画・運営に携わられていることから相談に乗って頂いたところ、本願寺の寛大なご理解もあり実現の運びとなった。
私達が仕事を行う上で重視しているスキルは、コンセプチュアルスキル、ヒューマンスキル、テクニカルスキルと位置づけている。林口氏のプロデュースにより、午前中は「北陸の精神風土と仏教」をテーマにコンセプチュアルスキルを磨き、午後は「浄土真宗の教えと心の健康について」をテーマにヒューマンスキルを高める内容で研修計画を進めた。会場は、高岡市中田の飛鳥山善興寺さんをお貸しいただけることが決まり、平成30年6月29日にスクール・ナーランダ(企業研修版)を開催した。
幹事としての心配ごと
本研修において幹事として懸念材料があった。それは、今回主眼としたコンセプチュアルスキル、ヒューマンスキルは決して短期間で向上するものではなく、いろいろなヒントをきっかけに、自分の中で咀嚼し、他人と語り、実践してモノになる特性があるため、研修成果が実感しづらいのではないかという点である。
結論から話すと、私自身、今回のスクール・ナーランダ終了後は、一日を通して大変素晴らしい経験をした実感があるものの、自分の理解が追いつかず消化不良ぎみの感覚が残った。しかし約一月後、一冊の書籍『なぜ今、仏教なのか』(原題Why Buddhism Is True,ロバート・ライト著)に出会い、スクール・ナーランダの学びが一気に心の中で結晶化した。私の場合は一冊の書籍が触媒の役割を果たしたが、参加者それぞれが、多様なきっかけ、各々のタイミングで新しい何かを得ることができる ― その礎になる一日だったのではないかと振返っている。
心に大きな衝撃を受けた午前のプログラム
午前の部「北陸の精神風土と仏教」は、南砺市大福寺ご住職、太田浩史氏の講義が中心である。民藝と真宗という視点から、人間の自由や地方色、商業主義等、現代社会が抱える問題の核心に迫るお話を頂いた。
中でも私が衝撃を受けたのは、董其昌の『画禅室随筆』を引用し「士気」を解説される中で、「私達は目に見えない縄に縛られており、自らの能力が発揮できない状態である」とおっしゃられた一言である。その時確かに、いままで見えていなかった縄の存在が私には感じられた。
続く「直観」の必要性では、柳宗悦の言葉から、美しさの理解には直観が必要であり心に何か濁りがあると直観に立ちどころに曇りが来ることを教えて頂いた。
整理すると、私達の心は見えない縄で縛られており、心が濁っているため、美を理解する直観が曇っているということだ。ここでいう美は、ものごとの真実とも言い換えられる。すなわち、私達は何かに縛られており、真実が見えない状態であると太田氏は突きつけたのである。
見えない縄はどこから来るのか
前述の『なぜ今、仏教なのか』では、ブッダの教えと進化心理学の両面から、見えない縄の正体を解明しようとしている。科学ジャーナリストである著者のロバート・ライトは、前著『モラル・アニマル』において、進化心理学とは自然選択がどのように人間の脳を設計し、どのように私達を誤った方向に導き、私達を奴隷にさえするのかを研究する学問だと説明している。自然選択においては、過去に遺伝子の伝播に役立った遺伝形質は繁栄する一方、役に立たなかった遺伝形質は脱落する原則が適用される。
一例として、私達は感覚的な快楽に強力に引き寄せられてしまう習性がある。私達は自然選択によって、遺伝子を伝えるために役立ったと考えられる ― 食べる、セックスする、他人の尊敬を得る、競争相手に勝つ等々 ― をしたくなるように設計されているのだ。
ライトは、私達が仮にDNAの設計者だったら、遺伝子を拡散するためにどのような心理状態を組み込むと思うかと問いかける。まず、食べる、他人の尊敬を得る等、遺伝子の拡散に合致する目標を達成することで快楽が得られるようにすれば、そのことを追求するようになる。ただし、快楽による満足感が長続きすると次の動機が生まれないため、快楽はすぐに消えるようにしなければならない。そして、次の快楽を求めることに集中させ、決して「快楽はすぐに消失する」ことを考えない脳にする必要がある。ここから言えることは、自然選択とは私達が多産であるようにするが、私達が幸せになることに関しては無関心であるということである。このような遺伝形質は、サルを使った実験でも明らかになっており、甘い果実の雫をサルの舌に落とした時のドーパミンの分泌量は、最初は舌に触れた時に多く分泌されるが、次第に果実の雫をもらえると期待する場面で多く分泌されるようになり、実際味わった時の分泌量はどんどん減っていくという結果で実証されている。「人が追い求める快楽はすばやく消えてなくなり、もっと欲しいという渇望だけが残る」。これはブッダの残した言葉である。
見えない縄の正体
通常、生物の遺伝子は環境とともに長い年月をかけて進化し適応する。なぜ人間は、遺伝子の進化を取り残して自らの環境をどんどん変化させたのか。『サピエンス全史』でユヴァル・ノア・ハラリは、サピエンスが「虚構」について語ることができる能力を得たため認知革命が起きたと整理しており、興味深い。実際に存在していないもの=虚構を語る能力は、ロビン・ダンパーが突き止めた社会的関係性の個別認知から規定される集団の上限=150を超え、より多くの人々を同一の方向に向かわせることに成功した。その虚構とは、神話、王、宗教であり、現代社会において資本主義、民主主義、法体系、倫理などとして受け継がれている。サピエンスは虚構の力で他の人類及び生物を圧倒し世界を支配したが、この虚構の力は、ゲノムを迂回する力を持っていた。他の社会的な動物の行動は遺伝子によっておおむね決まっているが、サピエンスは虚構により創出される「文化」を進化(変化)させることができるため、遺伝的進化の交通渋滞を避け、追い越し車線をひた走り、他の動物種を大きく引き離したとハラリは説明している。一方、私達の身体的、情緒的、認知的能力は、依然としてDNAに定められており、それは石器時代から大きく変化していない。
つまり社会環境が大きく変化した一方で、私達の心を形成する情緒的なもの、認知能力のベースとなるDNA的特質は、石器時代のままである点に留意しなければならない。再度ライトの説に戻るが、狩猟採集時代からあまり進化していない私達のDNAは、錯覚や妄想を自らに見せるように設計されていることが進化心理学で解明されている。不安、憎悪、欲望にはじまり、部族意識、敵対心、報復欲求、偽陽性(めったに起きないリスクを回避するための錯覚)、人を怒らせたのではないかという不安感、尊敬されたいと思う自意識、競争に勝ちたい願望、資源を占有したい独占欲などは、狩猟採集民の村で生き抜くために必要な性質だった。それらを整理すると、原始的な集団の中で生存・繁殖するため、何よりもまず「自己」が中心にあり、次に家族、そして帰属している集団の中における地位へ執着する構造が背景として見えてくる。どうやら太田氏の言う「見えない縄」とは、急変を遂げた社会環境と、狩猟採集時代のDNAが生み出す心理的性質とのギャップから生じる自己への妄執が根本にあると理解できる。
では、「見えない縄」はそれを認識することにより抜け出すことができるのだろうか。ライトは、進化心理学は錯覚や妄想による心理的苦痛を理解するのには役立つが、それを克服するためには何の力も発揮しないと言明しており、認識と克服は別次元で考える必要がありそうだ。
お昼前後のプログラム
ここで一旦、スクール・ナーランダのプログラムに戻りたい。「見えない縄」にショックを覚えながら太田氏の講義が終わり、続いて会場をお貸しくださった善興寺のご住職飛鳥寛靜氏より棟方志功の『御二河白道之柵』の解説、寺院のご案内を頂いた。志功渾身の作品が放つ迫力に圧倒されるとともに、「力とか、慾とか、そういうものがはいらない世界、願うことではなく、願われる仕事、そんな慾でない慾を持ちたいものです」という志功の言葉が胸に響いた。志功も「見えない縄」と戦っていたのだろう。そして、それを超えるものとして「真宗」、「他力」を感じていたのではないかと思われる。
昼食をすませた私達は、能作の新工場にて鋳物づくりの見学に出かけた。北陸の精神風土に立脚するものづくり、「土徳」が現代に受け継がれている現場である。
心の健康を考える午後のプログラム
午後は高善寺(島根県)の副住職であり臨床心理士でもある武田正文氏より「浄土真宗から心の健康を考える」というテーマで講義を頂き、社員全員で本日の学びについて議論した。
武田氏の話の中で、「仕事とは、誰かの苦しみを減らしていこうとするものである」との教えに、心が動かされた。仕事を通じ、自己の目的達成や、自己実現を目指すのも悪くは無いと思うが、クライアントとの関係や社内チーム内において誰かの苦しみを減らすことができれば、それ以上の仕事は無いように思う。また、八正道のひとつである正念=マインドフルネスの基礎的な方法について教わった。
ディスカッションは時間制約上、一人ひとりの発言機会は少なかったが、学んだことを共有できたのはよかったと思う。さらに、ディスカッションの合間に武田氏、林口氏にコメントをいただいたのは効果的であった。武田氏の仏教+カウンセラー的視点と、林口氏の職業人としての視点の両面があり、腑に落ちることが多かった。
研修の最後には、毎年参加頂いている金沢大学教授髙山純一先生、そして当社顧問を務めて頂いている金沢大学名誉教授木俣昇先生に総括の講評をいただき、研修会は終了となった。
見えない縄からの脱出方法
午前と午後のプログラムは、仏教をベースにしながらも別々のテーマで進行したかのように見えた。しかし、それは私の理解不足が原因であり、二ヶ月が経った今ようやくその結びつきが見え始めている。
武田氏はこのようにお話されていた。「是非マインドフルネスを行ってほしい。マインドフルネスで呼吸を感じてほしい。今ここに座って生きていることは呼吸ができているからであり、世界が私を生かしてくれているからである。この世の中は自分にとって、いいことも悪いこともあるが、基本的に世界は自分を生かしてくれるためにあり、私たちはそれを頂きながら生きている。その感度を磨くのがマインドフルネス。心の向きを変えるのは鋭くなるから。本当に小さな喜びでも「小さい喜び」と感じられること、辛いことがあっても、これは一切皆苦なんだと考えることができると、変わってくるのかなと思う」。
この言葉には、「私達を縛る見えない縄」からの脱出方法が、マインドフルネスであることが示唆されている。見えない縄の存在により、私達は一切皆苦の状態にある。それを認識した上で、マインドフルネスにより呼吸に集中することが、渇望を満たすことによる喜びとは別次元の真の喜びに対する感度を磨く。それは、人間の妄執によって引き起こされる苦を断ち切るための手段なのだ。
見えない縄とマインドフルネス
見えない縄の正体とマインドフルネスの関係を整理するため、スクール・ナーランダの学びを私の中で一つの大きな幹に結び付けてくれた『なぜ今、仏教なのか』の要約を以下に示す(ライトの要約をさらに編集している)。
1.人間は錯覚や妄想により世界を明晰に見られないことが多く、それが原因で苦しんだり、ほかの人を苦しめたりすることがある。そのことが仏典に描写されている。
2.人間は、目標を達成することで、長つづきする満足が得られると期待しすぎる傾向がある。この錯覚は自然選択の産物と考えると納得がいくが、幸せの秘訣にはなりえない。
3.四聖諦で明らかにされるドゥッカ(苦しみ、不満足)の原因であるタンハー(渇望)は、どんなものに対する満足も長く続かないように、自然選択が生物に植えつけたものといえる。好ましいものを手に入れて執着したい願望と、好ましくないものから逃れたい願望=忌避の感覚に関する苦しみを消し去れば、たくさんの苦しみが消える。
4.人間は、ものごとへの執着とものごとの忌避という、タンハーの二つの側面に服従しがちだが、マインドフルネス瞑想などの瞑想法により感覚の支配力を弱体化できる。永遠に続く完全な解放=ニルヴァーナが到達可能かどうかは人によって意見が分かれるが、瞑想の実践によって人々の生き方が変容するのは間違いない。執着が弱まれば、畏敬や思いやり、美の感覚など特定の感覚が鋭敏になる場合もある。
5.私たちの直感的な「自己」の概念は誤解を招きやすい。私たちはどんな種類の思考や感覚も無批判に「自分のもの」として受け入れがちだが、同一化するかどうかは自分で選択できる。瞑想を通じて反射的に同一化をしないようにする方法を学べば苦しみを減らすことができる。どの感覚の誘導を受け入れるか自由裁量を行使することは、仏教の「無我」の思想を実用的に役立てることだ。
6.仏教の「無我」は、現代心理学の十分な裏付けを得ている。意識ある自己、すなわち自我は一般的に考えられているほど私たちの行動を指揮しているわけではない。
7.私達が知覚する物体や生物に「本性」があるという直観は、仏教の「空」の教義が言うように錯覚だ。本性は知覚がつくったもので現実ではないという気づきは、瞑想実践と組み合わせると特に有益だ。かなり広範囲に本性を感じなくなったと話す熟達した瞑想家は、幸福感に満ち、慈悲深い。
8.マインドフルネス瞑想は、行動の原因になるものに対して注意深くなること、知覚が内的状態にどう影響するかや、ある内的状態が別の内的状態や行動にどうつながるかに対して注意深くなることだ。また、影響の連鎖の中で感覚がはたしているように見える重要な役割に対して注意深くなることでもある。重要なことに、この影響の連鎖への気づきをもたらす瞑想実践は、そこに介入してくる影響のパターンを変える力も私達に与えてくれる。かなりの部分、これが仏教の解放 ― すなわち、以前は私達をしばりつけていたうえ、私たちの目には見えていないことが多かった影響の連鎖から文字通り脱出することだ。
太田氏が投げかけてくれた「見えない縄」とは、自然選択により私達が遺伝上持っている心理的性質から発生する。そこから脱出することが仏教の解放であり、具体的な実践方法がマインドルフルネス瞑想であるとライトは述べている。志功が「(富山では)誰も彼も、知らずの内、ただそのままで阿弥陀さまになって暮らしているのです」と感じたのは、他力により自己への妄執が軽減された状態で人々が生きている様を感じた結果ではないかと思われる。
仏教の中核に、「人々を苦しめている根本的な原因は何か」、「苦しみから解放されるにはどうすればよいのか」という一貫したテーマがあることは、私にとっては大きな発見だった。
学びから実践へ
一月前から一日10~20分程度だが、マインドフルネスの時間を生活に組み込んでいる。これにより、自分自身の性格上の特質であると半ば諦めていた、仕事上の過度な不安や焦燥感、自己嫌悪や後悔の念、家族への不快感などが大きく改善されつつある。(なんとなくの違和感も覚えるのだが)スマホアプリで瞑想の時間を管理している。1ヶ月の瞑想時間はたったの10時間、1万時間を超える瞑想家と比較すると赤ちゃんレベルだが、ヒューマンスキルの向上を実感できている。
今回のスクール・ナーランダ研修は、学びから実践へと進む力を私に与えてくれた。ご指導くださった先生方、大変素晴らしいプログラムをプロデュースいただいたエピファニーワークスの皆様、ともに研修に励んだ仲間達に心から感謝したい。
(米田 亮)