株式会社計画情報研究所

COLUMN

熊本天草 崎津集落訪問記

石川県建設コンサルタント協会の視察にあわせ、熊本県の天草地方を巡ってきた。天草は、大小120余の島々からなる諸島であり、九州とは天草五橋で結ばれている。天草上島、天草下島を合わせると800k㎡。佐渡島と同規模であり、能登半島のスケール感と近い。最も思い出に残った崎津集落を中心に訪問記を共有したい。

天空の鳥居 倉岳神社

まず訪れたのは、天空の鳥居と呼ばれる倉岳神社。天草諸島で最も高い倉岳の頂上に鎮座する。不知火海に浮かぶ御所浦の島々が眼下に広がり、天地創造のような風景だ。

冬の気嵐の中 海中に現れる崎津集落

日本の中でもかなり稀有な宗教的伝統を持つ崎津集落。世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成遺産になっている。冬の朝、気嵐が起きたときの集落が幻想的だと聞き、下田温泉を6時に出発。6時半からシャッターを切り続け、7時過ぎに撮影した写真。海沿いに広がる集落、教会の尖塔が象徴的だ。

集落全景

「崎津集落ガイダンスセンター」に車を停め、紹介ビデオを見てから歩いて集落へ向かう。街道沿いから望む集落も美しい。

街道の風景

集落の中心へ向かう街道。道をまず通し、その後少しずつ住める場所を広げていったと思われる。山側の後背地は崖、奥行きは狭い。海側は石積の岸壁まで家1軒分だ。総二階の建物が多いため、道路の広さと建物の高さが1:2のバランス。スケール感が気持ちよく、散歩しているまちの人、立ち話をしている姿もみられた。

中心部の路地

中心部は街道から少し奥行きがあり、路地空間が形成されている。教会との距離感に信仰と生活の密着度を感じる。ほぼ車が通らないウォーカブルな空間。生業は漁業が中心で、今も変わらない。網元と漁師のような序列が家並みからあまり感じられないのも潜伏キリシタンの思想的背景か。

カケとトウヤ

漁村集落は、家屋と海の接点に特徴が現れる。崎津においては「カケ」と呼ばれる空間。 素材は竹やシュロが用いられており、舟の停泊や漁師の作業場となっている。

家屋と家屋の間には「トウヤ」と呼ばれる幅1m程度の細い道が設けられ、海へ向かっ て延びている。海へのアクセス性が重視された結果の空間だ。揚ったばかりの魚を手際よく加工していた。一夜干しを作るそうである。トウヤはカケと一体となり、生業である漁業に欠かせないスペースとなっている。

潜伏キリシタンの歴史

1550年ザビエルが平戸で宣教する。これが長崎、天草地方にキリスト教が広まったきっかけだ。だが、1614年には幕府がキリスト教禁教令を出している。そして1637年には島原・天草一揆が起き、鎖国へとつながる。明治時代に解禁されるまでキリスト教の禁教期が続いた。この禁教期(約230年間)に社会的には普通の生活をしながら、ひそかに信仰を続けたのが潜伏キリシタンである。禁教時代、﨑津の潜伏キリシタンは、崎津諏訪神社の氏子となり参拝の際には密かに「おらしょ」(祈り)を唱えていたと言われる。アワビの貝殻の内側の模様を信仰対象に見立てるなど、身近なものを信心具として代用し信仰を実践した。そして崎津では一年中玄関先にしめ縄が飾られる。禁教下にキリシタンだと疑われないように年中飾っていた風習の名残 である。

なぜ(私は)まちを歩くことが楽しいのかを考える

吉田修一のエッセイ「日常前夜」に「旅行というのは、楽しもうとするから楽しくなるのではなくて、楽しいから自然に楽しくなってくるのではないかと思う。言葉にすれば小さな違いだが、実は致命的な違いだったのかもしれない」という一節があり妙に腑に落ちた。では、なぜ自然に楽しいのだろうか。マルクス・ガブリエルの『考えるという感覚/思考の意味』になぜ私はまちを歩くのが楽しいのか、それを考えるヒントがあったので紹介したい。キーワードは、感情的知性、現象的意識、モデル認識である。

感情的知性:私達の有機的状態(身体全体)は幼少期の教育を通して形成される。育つ過程で神経系はまわりの環境の経験に対する反応として作り上げられる。私たちのまわりの環境は、私たちの〔身体〕運動の経験を通して、私たちの内面状態へとフィードバックされる。人間の知性の中心的存在である感情的知性は「歩く」を基本とする運動を通して、頭に浮かんでくる思想(思い)を選び出す。まちを歩くことは、運動を通じて、環境(まち)を経験し、様々な思想が去来する、創造的な行為であるといえる。また、私たちが生き物としてそのつどなすことには、快と不快が立ち現れる。これは基礎的な刺激システムであり、それがなかったら人間はいかなる動機付けももつことができない。快があるおかげで、生は意義深いものになる。

現象的意識:その時々の心的状態(=現象的意識)は、私たちの有機的身体全体の背景ノイズである。経験とは私たちの有機的身体にそなわった一種のエコーチェンバー現象が起きること。その中では、さまざまな状態が内的に処理され、志向的にアクセスすることができる。知らないまちを歩くとき、まちが有機的身体である自分にとっての背景ノイズとなり、私たちの体の中に色々な刺激、思いが生まれる。それは自分の関心事にそって対象化できる。私の場合は、そこに住む人の生活全般や幸福感のようなものが関心事(志向性)であるため、それが見え隠れしたときに「快」となる。

モデル認識:私たちの意識は、常に現実のほんの限られた部分に向けられている。感情的知性のおかげで、私たちはこの接触をある特定のあり方で体験する。そうすることで、私たちは選び出した現実のものの一部を志向的に、論理的にフォーマットし、さらに処理を進めることができる。私たちは個々のものだけを把握しているのではなく、常に関連を把握し、そこから個々の物事をより正確に調べる能力を発達させている。私のまち歩きの場合は、景観、建築形態、生業の姿、住民の表情や行動、宗教、食、工芸などを写真撮影により関連づけ、そのまちの特性やそこに至る要因、今後の姿などを思い考える。それによりさらに論理的フォーマットが更新され、理解する力が強くなる(ような気がする)。それ自体も「快」である。

このように、私の感情的知性が、まちを歩くことで私の関心事を刺激し、体験を生み出す。崎津はそのフォーマットが強くはたらく魅力的なまちであり、歩くことが楽しかったまちである。

(米田)