SCOT SUMMER SEASON 2025
SCOT 50年
鈴木忠志が利賀で活動を初めて50年。野外劇場は古代遺跡のような風格を纏いつつある。
86歳を迎えた鈴木忠志は、「現在の日本は、見えるものと見えないものとのバランスを大きく崩してしまった国のように見える。…中略…見える枝葉にばかり目をとられ、根の大切さをないがしろにしつつあるように見える。私にとっての「根」とは、伝統と現在を生きる人々が忘れてはならない、過去から現在に連なる歴史的時間のことである」と述べている。そして、SCOTとは、それぞれの国の「根」とは何かに芸術家が向きあい連帯し、メッセージを発する場でありたいと、思いを綴る。
今年は、鈴木忠志演出『世界の果てからこんにちはⅢ』と金森穣演出振付『マレビトの歌』を鑑賞した。
マレビトの歌
マレビトの歌は、新利賀山房で上演された。平日夕方であったが、ほぼ満席の約200人が訪れていた。
金森穣が主宰するNoismは、日本初となる公共劇場専属舞踏団(拠点はりゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館)である。
「マレビト」は折口信夫によって提唱された我が国の民俗学・信仰上の概念であり、折口の師である柳田國男の「常民」と対をなす。常民による社会が風土を基に文化を形成するが、やがて同調性が高まり、批判性を失い形骸化する。そこにマレビトが訪れ、緊張関係が生まれる。
舞台では、男女という社会の基本単位から、常民とマレビトの出会い、警戒、受容、交流、影響、創造、破壊という一連の流れの中、エネルギーの複雑な流れが表現されていた。
この言語化できない何か、を感じ、自分に取り込むことは、鈴木忠志の言う「見えないもの」を理解することに近づくことではないかと思う。舞踏の世界を至近距離で感じ、その動きに見入るとともに、このような表現方法でなければ理解できないことがあると改めて感じる中で、人と人、個人と集団の中に流れるエネルギーの波動に人は敏感に反応し、恐れたり、安心したり、抑圧したり、反発するのが社会の本質なのではないかと気づく。そして、何かそこに、私たちの社会の在り方が見えてくるような気がした。
世界の果てからこんにちはⅢ
鈴木忠志は「大都市では文化は消費できても創造することができない」との思いで利賀を活動の場に選んだ。利賀を訪れ、深い山あいに人間の営みを感じるとき、連綿と続く時間軸に自然と意識が向かう。
鈴木忠志は、「現在の我々には日本という言葉から感じる共有のアイデンティティはないのだ」と考える。そのうえで、「日本人と呼ばれる人間集団の特質は何か」を問題提起し、観客とともに考える材料を舞台化することが「世界の果てからこんにちは(果てこん)」3部作を通じたテーマである。
果てこんⅢが突きつけるもの
約1時間の舞台があっという間に終焉を迎えた。頭で考えるのではなく、身体で感じる。これが鈴木忠志の演出の力だと思う。鈴木忠志が創出した俳優訓練法スズキ・トレーニング・メソッドは基本的な身体や呼吸の使い方、そして思想の訓練だ。考える前に身体があるというのは禅とも共通する。
波動のように、身体から身体へと伝わってくる声から再認識させられるのは、我々が罹患している「病気」は快方に向かっておらず、むしろ悪化しているという現状。誰もが、「自分は精一杯やっているのに、周りの人は、社会はどうなんだ」と懐疑的になっている状態だ。
その病原菌はモダン・ニヒリズムなのではないだろうか。マルクス・ガブリエルは、モダン・ニヒリズムを次のように言い表す。「生まれる前に私はいなかった。死んだらまた無になる。その中間の私は、一つの肉体、欲求を持つ肉体である」これが現代の日本人の「根」になってしまっているとしたら、鈴木忠志のいう歴史軸を取り戻すのは不可能だ。
三部作の締めくくりと思われる「果てこんⅢ」では、車椅子に乗り動きが制限される出演者と対照的に、パンプキン・ダンサーズが舞台を盛り上げ、一瞬気持ちが軽く、明るくなる。鈴木忠志は「日本人はこうあるべきだ」と私たちに教え、諭すつもりは微塵もない。だが、暗くならず、考えることを止めず、日本人の「根」を取り戻していこうという意思がそこにはあり、私たちはその思いに感化し揺さぶられる。一人の思想家が答えを見つけてもたいした意味は無い。皆で感じ、創り上げ、時間をかけて意識化していくことが重要なのだ。
「利賀はいつも上機嫌」、「SCOTはいつも上機嫌」。たとえ不治の病におかされている身であっても、上機嫌でいつづけること。そこに我々が克服すべき何かがあるように思えてならない。
(米田)