スタッフコラム

読めなかった東野圭吾

東野圭吾は大好きな作家です。新刊書は、すぐに読むのですが、どうしても読めなかった小説がありました。それは、『人魚の眠る家』です。幼い子供の事故を通して、脳死や臓器移植を取り上げた話です。今年還暦を迎え、また昨年親しい友人2名を亡くしたことをきっかけに、意を決して読んでみました。読んでよかった!(北原)
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還暦に考える

 本年、還暦を迎えます。誌上では「終活」などの言葉も踊っています。私たちが、命を意識するときは、子や孫の誕生、親族や友人の死など、さまざまな場面があります。昨年、60代の親しい友人二人が亡くなったこともあり、これを機会に「尊厳ある命終(命の終わり)」について考えてみました。
 
 昨年亡くなった友人の一人は、突然の死でした。朝起きて「ちょっと具合が悪いから、水と薬を持ってきてくれ。」と奥様に頼みました。奥様が帰ってくると意識朦朧の状態で、その日に亡くなりました。息子さんへの事業承継のレールを引き始めたところだったそうで、無念だったと思います。
 もう一人は、一昨年、癌を宣告され、最先端の治療を受けておられました。残念なことに、宣告から1年あまりで亡くなりましたが、その間に事業承継の準備や葬儀の段取りも整えておられました。
 
 お二人とも最後は苦しみも少なく、家族にみとられ、安らかに息を引き取られたということです。突然であれ、また準備をしていたにしても、命終は私たちにとって重大事です。この時を必ず迎えます。安楽な死を迎えることができればいいのですが、医療技術が発達した現代では、そうもいかない事情があります。
 

『人魚の眠る家』(東野圭吾著)

 東野圭吾の『人魚の眠る家』は、小学校にあがる前の女の子がプールでおぼれて、「脳死状態」で眠りつづける物語です。ここでは、少女の回復を願う両親が脳死判定や臓器移植で葛藤する姿が描かれています。
 この小説を読んで初めて知ったことがたくさんありました。「脳死」と「植物状態」の違い、「脳死判定」と「臓器移植」の関係などです。
 
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『人魚の眠る家』東野圭吾 幻冬舎 2015年
 
 
 日本では、人の死は法律的に2種類あります。心臓死と脳死です。心臓死は、心停止、呼吸停止、対光反射の消失(瞳孔が開くこと)で死亡が確認されます。心臓死は、わかりやすく、私も心情的に納得できます。
 では、脳死とはどのようなことでしょうか。公益社団法人日本臓器移植ネットワークのホームページによると、脳死とは、大脳、小脳、脳幹などの機能が失われた状態を指します。脳全体の機能が失われた状態で、回復する可能性はなく二度と元に戻りません。薬剤や人工呼吸器などによってしばらくは心臓を動かし続けることはできますが、やがて(多くは数日以内)心臓も停止してしまいます(心停止までに、長時間を要する例も報告されています)。
植物状態は、脳幹の機能が残っていて、自ら呼吸できる場合が多く、回復する可能性もあります。脳死と植物状態は、根本的に全く違うものなのです。
 

脳死の判断

 ここで問題となるのは、日本では臓器提供の意思表示をしない限り、脳死判定をしないということです。「改正臓器移植法」が平成22年7月から施工されました。脳死判断には、いくつかのテストが手順に沿って行われます。最終段階では、人工呼吸器を外すというプロセス、すなわち呼吸を止めるテストもあります。
 
(法的脳死判定マニュアル。平成22年度)
 
 日本では法的に脳死と認められるのは、臓器提供のために法的脳死判定を行った時だけです。医者が脳死状態と見ていても、法的には脳死となりません。植物状態ではなく、脳死と思われても人の死ではないのです。臓器提供の意思表示をしない場合は、心臓死を待つしかありません。
 ここでの大きな問題は、臓器提供の意思表示を本人がしていない場合は、家族に判断が委ねられるということです。すでに生命維持装置が装着されていて、脳死状態であるならば、死を認めてほしい、家族が思ったとします。その際に、臓器提供の意思表示を本人がしていなかった場合、臓器提供の意思決定を家族がしなければなりません。臓器提供をしたくないと家族が判断したら、客観的に脳死状態であっても脳死判定は行われず、生命維持装置は、そのままになります。
 

命終についての意識調査

 命が終わろうとするとき、人はどのような終わり方を望んでいるのでしょうか。平成26年3月に厚生労働省がまとめた「人生の最終段階における医療に関する意識調査報告書」があります。
 
 この中では、一般国民に対する調査で、「交通事故で半年以上意識がなく、管から栄養をとっていて、衰弱が進んでいる状態」の時に、人工呼吸器の使用を望む人は、9%、心肺蘇生装置の使用を望む人は10.5%です。また末期ガンや重度の心臓病の場合に人工呼吸器の使用を望む人も約11%です。ほとんどの人は人工呼吸器の使用を望んでいません。
 
 その一方で、最終段階の医療をどうするかを書面で残すいわゆる「リビングウエル」については、「リビングウエル」に賛成する人が約70%あるにもかかわらず、実際に書いている人は3%に過ぎません。また、最終段階の治療について家族と詳しく話した人は3%弱で、全く話していない人が56%にものぼります。
 

備えあれば憂いなし

  臓器提供の意思表示をしない限り、脳死判定は行われず、生きていることになります。心臓死を待つしかありません。また、脳死状態や植物状態であっても、一度装着された生命維持装置を外すことは大変なことです。意識がない本人の同意は得られず、家族や医師の葛藤は、はかり知れません。ある病院では、生命維持装置の運用を取りやめたため、医者が殺人罪に問われたこともあります。
 本人が既に意思表示ができなくなっている場合、延命か否かの決定をしなければならない家族の苦悩は、はかり知れません。また臓器移植の意向まで問われます。家族は、ぎりぎりの状態で判断を求められるのです。
 
 そこで延命を望まず、尊厳ある死を望む場合、事前準備が大切になります。現在では、「日本尊厳死協会」の「リビング・ウイル」や公証人役場で「尊厳死宣言公正証書」などを作成するなど、尊厳死をスムースに行う手段があります。
 たとえば、
・死期がせまってどうしようもないときは延命治療を行わないこと、
・余命が短くなった場合、苦痛の緩和措置として薬物を使用すること、
・持続的植物状態になったときは生命維持措置を取りやめること、
などです。
 
 人は、必ず死にます。その時がいつであるか、わからないのは幸せです。私は、回復の見込みがないにもかかわらず、管をつけて長期間生きていることは、一種の拷問であると思います。死に際に苦しむことなく、尊厳ある命終を望んでいます。
そのためには上記のような備えがあれば、安心できます。その安心があれば、強い心で元気よく、仕事や家庭、社会活動に打ち込めると考えています。
「備えあれば憂いなし」これはいつでも金言です。
 
 

2017年1月26日 13:06